世界最高峰の自転車ロードレース、ツールドフランス。私にとって、フランスの美しい景色の中を走るこのレースは、夏の風物詩であり、長年欧州の選手たちが主役の舞台でした。しかし、この壮大な「グランブークル(大いなる輪)」に、日本人が深く関わっている事実はあまり知られていません。
1920年代の孤独な挑戦から、現代のレース機材を席巻する日本の技術力まで、その関係性は驚くほど深く、多層的です。この記事では、ツールドフランスという大舞台に挑んだ日本人選手たちの系譜と、レースのあり方そのものを変えた日本の技術革命について、詳しく解説します。
黎明期の孤高なる挑戦者たち|欧州の高い壁
ツールドフランスと日本の関わりは、非常に古くから存在します。それは、まだ日本人が欧州のレースに参加すること自体が想像もできなかった時代に遡ります。
1920年代の先駆者|川室競の挑戦
日本とツールドフランスの最初の接点は、1920年代にさかのぼります。川室競という名の選手が、この過酷なレースに挑んでいた記録が残っています。
特に彼が挑戦した1926年大会は、総走行距離5,745kmという大会史上最長・最も過酷なものでした。当時の機材は現代とは比べ物にならず、変速機すらない重い鉄の自転車で、未舗装路を走破する必要がありました。
彼はチームに所属しない個人参加枠で、機材の修理から宿の手配まで全てを自分で行いました。完走こそなりませんでしたが、1927年にも再挑戦しています。インターネットも航空機もない時代に、たった一人で世界の頂点に挑んだ彼の意志の強さには、私がいつも感銘を受ける部分です。
近代プロロードレースへの扉|今中大介
川室の挑戦から約70年後、日本人が再びツールの舞台に立ちました。1996年、今中大介選手がイタリアの名門チーム「ポルティ」の一員として出場を果たします。
これは、川室のような個人参加とは異なり、正規のプロチームメンバーとして選出された点で画期的でした。彼は欧州の荒波で実力を証明し、スター選手のアシストとしてツールを走りました。
結果はアルプス山脈のステージでタイムオーバーによるリタイアでした。しかし、彼が近代ツールの「スピード」と「強度」を日本に持ち帰り、見えない壁を打ち破った功績は非常に大きいです。この挑戦が、次世代の選手たちへの確かな架け橋となりました。
黄金世代の到来|「競技者」としての確立
今中選手が切り開いた道を、次の世代がさらに押し広げました。2009年は、日本のロードレース界にとって劇的な転換点となります。
シャンゼリゼを揺るがしたアタック|別府史之
別府史之選手は、高校卒業後すぐに渡仏し、欧州の育成システムで育ったライダーです。2009年、スキル・シマノのメンバーとしてツール初出場を果たします。
彼の走りは「完走狙い」ではありませんでした。第3ステージでは横風による集団分断(エシュロン)を乗り切り、先頭集団でゴールスプリントに挑み8位に入りました。
私が特に印象深いのは、最終日のパリ・シャンゼリゼでの走りです。パレードのようになりがちなこのステージで、彼は果敢にアタックを仕掛けました。この積極的な走りが評価され、日本人として初めて「敢闘賞」を受賞し、パリの表彰台に立ったのです。
世界が認めた不屈のアシスト|新城幸也
別府選手と同年、2009年に初出場し、共に日本人初の完走者となったのが新城幸也選手です。沖縄県石垣島出身という異色の経歴を持つ彼は、驚異的なタフネスとバイクコントロール技術で世界に認められました。
彼の役割は、チームリーダーを守るアシスト(ドメスティーク)です。その献身的な走りはチームからの信頼が厚く、世界トップクラスのアシストとして長年活躍し続けています。
- 2012年大会|第4ステージで逃げに乗り、敢闘賞を獲得。
- グランツール|出場した全てのグランツール(ツール、ジロ、ブエルタ)を完走するという驚異的な記録を持ちます。(2024年現在も継続中)
- 五輪出場|パリ五輪を含め、4度のオリンピックに出場しています。
新城選手は、自らの走りで「日本人の限界」を押し広げ続けている、まさにレジェンドです。
次世代への継承
新城選手や別府選手が舗装した道は、確実に次の世代へと繋がっています。
EFエデュケーション・イージーポストに所属する留目夕陽選手や、欧州で経験を積む石上優大選手など、新しい才能が育っています。彼らがツールの舞台で活躍する日もそう遠くはないはずです。
シマノ(SHIMANO)による産業的征服|技術がレースを変える
ツールドフランスにおける日本の影響力は、選手だけにとどまりません。大阪府堺市に本社を置くシマノの技術は、レースの戦術そのものを変革しました。
デュラエース(DURA-ACE)の誕生とSTI革命
1970年代、レース機材はカンパニョーロなど欧州メーカーの独壇場でした。シマノは1973年、最高級コンポーネント「デュラエース」を発表し、欧州の牙城に挑みます。
決定的な技術革新は1990年の「STIレバー」でした。これは、ブレーキレバーと変速レバーを一体化させたものです。
| 従来の変速 | STIレバーによる変速 |
| ハンドルから手を離し、フレームのレバーを操作 | ハンドルを握ったまま、手元で変速 |
| 変速時にタイムロスや不安定さが生じる | コーナーの立ち上がりやスプリント中でも瞬時に変速 |
STIレバーの登場により、選手はハンドルから手を離さずに変速できるようになりました。これによりレースのスピードと戦術は劇的に変化したのです。
Di2による電子革命とツールの制覇
シマノの挑戦は続きます。2009年に導入されたのが「Di2(Digital Integrated Intelligence)」、電動変速システムです。
従来のワイヤー式変速は、ワイヤーの伸びや摩擦、あるいは選手の疲労によって変速ミスが起こることがありました。しかし、Di2は電気信号とモーターで変速します。
指先でスイッチを押すだけで、どんな状況でも確実かつ迅速に変速が完了します。雨で手がかじかむ日も、極度の疲労状態にある山岳ステージの最後も、ミスなくギアチェンジが行えます。現在、プロトンのほぼ全チームが電動変速を採用しており、シマノがその基準を築き上げました。
青い守護神|ニュートラル・サービス
2021年、ツールの風景に大きな変化がありました。レース中の機材トラブルを中立的にサポートする「ニュートラル・サービス」の車両が、シマノの鮮やかな「シマノ・ブルー」になったのです。
チームカーが近くにいない状況でパンクや故障が起きた際、選手は所属チームに関わらず、この青い車から代わりのホイールや自転車を受け取れます。シマノのメカニックは、あらゆるチームの機材に対応し、0.1秒を争うレースの公平性を支えています。
レースを裏側で支える日本の職人たち
スポットライトが当たるのは選手や機材ですが、その裏側でチームを支える日本人スタッフたちの存在も欠かせません。
命の危機を乗り越えたソワニエ|宮島正典
ソワニエとは、選手のケアやマッサージ、補給食の準備など、身の回りの世話を一手に担う重要な役割です。ジェイコ・アルウラに所属する宮島正典(マサ)氏は、その代表格です。
彼は言葉の壁を乗り越え、持ち前の明るさと確かな技術でチームの中心人物となりました。2022年のツール開幕直前に心筋梗塞で倒れましたが、大手術を経て現場に復帰しました。彼の物語は、チームとの深い絆を象徴しています。
パイオニアたちの系譜|中野喜文と西勉
宮島氏以前にもパイオニアはいました。中野喜文氏は、1998年に日本人マッサーとして初めてツールとジロの両グランツールに参加した人物です。
メカニックの分野では、西勉氏が有名です。現代のロードバイクは整備が非常に複雑化していますが、日本人メカニック特有の緻密さと正確性は、チームの勝利に直結する重要な要素となっています。
食の支援|チームシェフの重要性
3週間の長丁場を戦う選手にとって、栄養管理と食事は勝敗を分ける鍵です。近年はチーム専属のシェフが帯同し、選手のコンディションに合わせた食事を提供します。
この分野でも、日本人の繊細な味付けや衛生管理能力が求められており、日本人シェフが活躍するチームも増えています。
モビリティと文化的交流|広がる日本の影響力
シマノ以外の日本企業も、ツールを支えています。文化的な交流も活発に行われています。
ヤマハ(YAMAHA)とオフィシャルバイク「NIKEN」
2019年から、ヤマハの3輪モーターサイクル「NIKEN(ナイケン)」が、ツールのオフィシャルバイクとして採用されています。
前2輪という特殊な構造は、荒れた路面や狭く曲がりくねった山道でも圧倒的な安定性を発揮します。カメラマンや審判員を乗せ、レース運営の安全性を向上させる、日本のモーターサイクル技術が活躍しています。
さいたまクリテリウム|ツール・ド・フランスの「輸出」
日本とツールの関係は、双方向の文化交流へと進化しています。その象徴が「ツール・ド・フランスさいたまクリテリウム」です。
毎年秋、その年のツールで活躍したマイヨ・ジョーヌ(総合優勝者)などが来日し、さいたま新都心の公道を走ります。新城選手らが世界のトップスターと肩を並べて走る姿は、日本の自転車文化が成熟した証拠です。
まとめ|ツールドフランスに不可欠な存在となった日本
一世紀前、川室競が一人で挑んだツールドフランス。今や、日本という存在なくして、この世界最大のレースは成立しません。
選手として新城幸也選手らが道を切り開き、技術としてシマノがレースのインフラを支配し、スタッフとして日本の職人たちがチームを支えています。私が思うに、日本はもはや単なる「参加者」ではなく、ツールドフランスという壮大な物語を共に創り上げる「共著者」なのです。

