デジタル技術の世界には、初心者と熟練者の間に流れる独特な緊張関係が存在します。この関係性を象徴する二つの言葉、「RTFM」と「LMGTFY」をご存じでしょうか。
これらは単なるネットスラングではなく、技術者たちの知識に対する姿勢や倫理観を映し出す鏡です。かつて頻繁に使われたこれらの言葉は、現在、急速に姿を消そうとしています。
私は、この変化の裏に技術の進化だけでなく、社会的な規範のシフトがあると考えています。本記事では、これら二つの言葉の歴史を紐解きながら、私たちが知識とどう向き合うべきかを解説します。
知識の非対称性が生んだ「自助」の言葉たち
技術コミュニティにおいて、知識を持つ者と持たざる者の間には常に埋めがたい溝がありました。この溝を埋めるための荒っぽい、しかしある種の愛を含んだツールとして生まれたのがRTFMとLMGTFYです。
RTFMが持つ「教育」と「拒絶」の二面性
RTFMは「Read The F**king Manual(そのクソったれなマニュアルを読め)」という強烈な意味を持つアクロニムです。一見すると初心者に対する単なる罵倒や拒絶に見えますが、その本質はより複雑なものです。
この言葉には「答えを安易に聞くのではなく、自分で探す習慣を身につけよ」というハッカー倫理が込められています。Unix文化圏において、自力で問題を解決する能力は何よりも尊重される徳目でした。
私は、RTFMが単なる突き放しではなく、「魚を与えるのではなく、釣り方を教える」ための厳しい教育的指導であったと捉えています。実際に、文脈によっては「Read The Fine Manual(素晴らしいマニュアルを読め)」という穏やかな表現として解釈されるケースもありました。
マニュアルが絶対権威だった時代からの変遷
RTFMが機能していた背景には、かつてのマニュアルが情報の「絶対的な正解」を持っていたという事情があります。1980年代のメインフレームや初期のPC環境では、情報はベンダーが提供する分厚い物理マニュアルに集約されていました。
当時はインターネット検索も存在せず、マニュアルを読むことが唯一にして最強の解決策でした。そのため、マニュアルを読まずに質問することは、戦場に武器を持たずに赴くような愚行と見なされたわけです。
しかし、現代ではアジャイル開発やオープンソースの普及により、公式ドキュメントがコードの変更に追いつかない状況が常態化しました。「マニュアルを読め」と言われても、そのマニュアルが存在しない、あるいは間違っているケースが増えています。
検索文化の象徴「LMGTFY」と皮肉の視覚化
2000年代に入り、情報の保管場所は物理マニュアルからGoogle検索へと移行しました。そこで生まれたのが「LMGTFY(Let Me Google That For You|君の代わりにググってやるよ)」です。
これは「検索すれば数秒で分かることを、なぜ他人の時間を奪って聞くのか」という皮肉を、アニメーション付きのWebツールとして具現化したものです。質問者がリンクを開くと、勝手に検索が行われる様子が再生され、「そんなに難しかったか?」というメッセージが表示されます。
RTFMが「読む努力」を求めたのに対し、LMGTFYは「検索リテラシー」を求めました。これは受動的攻撃性(パッシブ・アグレッシブ)の極致であり、初心者に羞恥心を与えることで行動変容を促す「劇場型の皮肉」だったといえます。
なぜこれらの言葉は「死語」になりつつあるのか
かつて隆盛を誇ったRTFMやLMGTFYは、現在では公の場で使うことが憚られる言葉となりました。その背景には、テクノロジーの限界とコミュニティの変質という二つの大きな要因があります。
コミュニティ規範の激変と「優しさ」の強制
最大の要因は、Stack Overflowなどの主要な技術コミュニティが「Be Nice(親切であれ)」という規範を強く打ち出し始めたことです。初心者を萎縮させる攻撃的な言動は、コミュニティの成長を阻害する「毒」であると認定されました。
運営側はLMGTFYのような皮肉を含んだリンクを禁止し、ブラックリストに入れるという強硬手段に出ました。質問の質がどれほど低くても、回答者が無礼な態度をとってよい理由にはならないという判断です。
私はこの変化を、技術の世界が一部のエリートだけの閉じたギルドから、より多くの人々を受け入れる開かれた社会へと成熟した証だと見ています。排除の論理よりも、包摂(インクルージョン)の論理が優先される時代になったわけです。
検索結果の個人化が招く「ググれ」の機能不全
技術的な側面から見ても、「ググれば分かる」という前提は崩れつつあります。Googleの検索結果は個人の履歴や位置情報によってパーソナライズされるため、回答者が見ている「検索1位の正解」が、質問者の画面に表示されるとは限りません。
これを「フィルターバブル」と呼びます。同じキーワードで検索しても異なる世界が見えている状態では、ただリンクを投げるだけの行為は解決策として機能しません。
さらに、リンク先の記事が消滅する「リンク切れ」の問題もあります。知識を永続化させるためには、外部サイトへ誘導するのではなく、その場で完結した回答を記述することが求められるようになりました。
認知バイアス「XY問題」による指導の限界
初心者が抱える問題の多くは、単に調べるのをサボっているからではありません。「XY問題」と呼ばれる認知の罠に陥っているケースが非常に多いです。
本当の課題が見えなくなる構造
XY問題とは、ユーザーが本来解決したい課題(X)ではなく、自分が思いついた誤った解決策(Y)のやり方を質問してしまう現象です。例えば、ファイルの拡張子を変更したい(X)のに、ファイルの内容を書き換えるツール(Y)の使い方を聞くような状況です。
マニュアル誘導が無意味になる理由
この状況で「Yのマニュアルを読め(RTFM)」と突き放しても、ユーザーは問題Xを解決できません。そもそもYが不適切な手段であるため、いくらマニュアルを熟読してもゴールに辿り着けないからです。
本当に必要なのは、マニュアルを読ませることではなく、「そもそも何をしようとしているのですか」と問いかけ、隠れた課題Xを見つけ出す対話です。RTFMアプローチは、この対話の機会を奪ってしまう点で不完全な解決策だといえます。
日本独特の「ggrks」と空気感
日本においても「ggrks(ググれカス)」という言葉が流行しましたが、これは欧米のLMGTFYよりもさらに直接的な攻撃性を持っていました。日本のネット文化には「半年ROMれ(場の空気を読むまで発言するな)」という、非常に高い文脈理解を求める傾向があります。
「教えて君」と呼ばれる、自力で調べないユーザーを徹底的に排除するこの文化も、世界的な「優しさ」へのシフトとともに、徐々に鳴りを潜めつつあります。

生成AIの台頭がもたらす「問い」の新たな形
2020年代に入り、ChatGPTをはじめとする生成AIの登場は、知識獲得のプロセスを根本から覆しました。私たちは今、検索エンジンの時代を終え、対話型AIの時代へと足を踏み入れています。
検索から対話へ|Let Me GPT That For You
近年、Google検索の精度低下やSEOスパムの増加により、検索だけで有用な情報に辿り着くことが困難になりました。この状況に対する新たな皮肉として「Let Me GPT That For You」が登場しています。
これは「AIに聞けばノイズに邪魔されず答えが出るのに、なぜそれを使わないのか」という、AIリテラシーに基づいた新しいマウンティングです。かつて「ググれ」と言われた言葉は、今や「AIに聞け」に置き換わりつつあります。
しかし、ここには「もはや従来の検索エンジンは役に立たない」という、現代のWeb環境に対する諦めも含まれています。私たちは情報の「探査」から、AIによる情報の「合成」へと依存先を変えているのです。
プロンプトエンジニアリングという現代の「必読書」
AIが答えを教えてくれる時代になっても、RTFMの精神が完全に消えることはありません。形を変えて残り続けます。それが「プロンプトエンジニアリング」です。
AIはもっともらしい嘘(ハルシネーション)をつくことがあります。AIの回答が正しいかどうかを検証するためには、結局のところ一次情報である公式ドキュメントに立ち返る能力が必要です。
適切な質問(プロンプト)を組み立てる能力は、かつての「適切な検索ワードを選ぶ能力」や「マニュアルの索引を引く能力」と同じです。ツールがどれほど進化しても、正しい問いを立てる知性だけは、人間に求められ続けるでしょう。
まとめ
RTFMとLMGTFYの興亡史は、私たちが知識とどう向き合い、他者とどう関わるべきかという問いを投げかけています。かつての排他的な態度は消えつつありますが、「自律して学ぶ姿勢」の重要性は変わりません。
私たちは今、突き放すのでも甘やかすのでもなく、「私はこうやって答えを見つけた」というプロセスを共有する新しいフェーズにいます。
- 攻撃的な指導の終焉:RTFMやLMGTFYはコミュニティの健全化に伴い排除された。
- 技術的な機能不全:検索のパーソナライズやXY問題により、「調べろ」という指示が有効でなくなった。
- AI時代の新しい規範:AI活用が前提となる中で、改めて一次情報を検証する力が求められている。
知識を持つベテランとして、私たちは「答え」だけでなく「探索の喜び」を伝えていく役割を担っているといえます。

