インターネットはかつて「海」に例えられ、波を乗りこなすように情報を探す行為は「ネットサーフィン」と呼ばれました。しかし、2025年現在、この言葉は若者にとって意味の通じない死語になりつつあります。
私が調査したところ、単なる言葉の流行り廃りではなく、インターネットの構造と私たちの行動が根本から変わったことが原因だとわかりました。この記事では、なぜネットサーフィンが死語になったのか、そして現代の主流である「タグる」「ディグる」という新しい検索文化について詳しく解説します。
ネットサーフィンが死語になった構造的な理由
「ネットサーフィン」という言葉が使われなくなった最大の要因は、インターネットの仕組みそのものが変化したことにあります。かつてのように、ユーザーが自ら情報の波を探しに行く必要はなくなりました。
現代のネット利用は、広大な海を自由に泳ぐものではなく、最適化された情報を消費する行動へと変わっています。ここでは、その構造的な変化を2つの視点から解説します。
自分から探すプル型から自動で届くプッシュ型へ
かつてのインターネットは、ユーザーが能動的に情報を取りに行く「プル型」が主流でした。私たちは検索窓にキーワードを打ち込み、リンクを次々とクリックして情報を探し回っていました。
しかし、現在はアルゴリズムがユーザーの好みを分析し、情報を自動的に届ける「プッシュ型」へと移行しています。自分で波を探さなくても、口を開けて待っていれば最適な波が運ばれてくる時代になりました。
アルゴリズムによるレコメンデーション
TikTokやInstagram、YouTubeなどのプラットフォームは、私たちが検索する前に見たいものを提示してくれます。これは「おすすめされたコンテンツをワンタップで開く」という受動的な視聴スタイルを定着させました。
若者たちの間では、わざわざ自分で検索してサイトを巡回することは少なくなっています。波を探す苦労がないため、「サーフィン」という比喩が実態に合わなくなっているわけです。
検索精度の向上とセレンディピティの喪失
Googleなどの検索エンジンの精度が劇的に向上したことも、ネットサーフィンを過去のものにしました。検索すれば大体の答えがすぐに見つかるため、あちこちのサイトを彷徨う必要がありません。
かつては目的もなく彷徨う中で、思いがけない面白い情報に出会う「セレンディピティ」がありました。しかし、最短距離で正解にたどり着ける現代において、寄り道を楽しむサーフィンは効率の悪い行為とみなされています。
開かれた海から壁に囲まれた庭への変化
ネットサーフィンが成立する前提は、Webページ同士がリンクで自由につながっていることでした。しかし、現代のインターネット利用の中心は、アプリという閉ざされた空間に移っています。
専門用語で「ウォールド・ガーデン(壁に囲まれた庭)」と呼ばれるこの環境では、外部への移動が制限されます。海が埋め立てられ、巨大なプールの中で遊んでいる状態に近いといえます。
アプリ完結型のインターネット
多くのユーザーはブラウザではなく、LINEやInstagramなどの特定アプリの中で時間を過ごします。アプリからアプリへの移動は、リンクを辿るようなシームレスな体験ではありません。
一度ホーム画面に戻って別のアプリを起動するという断絶した動作が必要です。これは波に乗って移動する感覚とは程遠いため、サーフィンという言葉がリアリティを失いました。
リンクで飛ぶ文化の衰退
Instagramの投稿に外部サイトへのリンクを貼るのが難しいように、プラットフォーム側はユーザーを囲い込もうとします。外部サイトへ次々と飛んでいく「回遊」は、アプリ提供者にとって望ましくない行動だからです。
その結果、私たちは一つのアプリの中で完結する情報消費に慣れてしまいました。ドメインを跨いで次々と移動するネットサーフィンは、物理的にも心理的にも行われにくい環境になっています。
若者が使う新しい検索行動|タグるとディグる
「ネットサーフィン」という言葉が消える一方で、若者たちの間では新しい検索行動を表す言葉が生まれています。それが「タグる」と「ディグる」です。
これらは現代のインターネット利用の本質を鋭く突いたキーワードといえます。それぞれがどのような心理的欲求を満たしているのか、詳しく見ていきましょう。
共感とリアルを重視するタグる
「タグる」とは、InstagramなどのSNSでハッシュタグ(#)を使って検索する行為を指します。なぜGoogleで検索する「ググる」ではなく、タグるのでしょうか。
そこには、情報の信頼性に対する若者特有の感覚があります。彼らは作られた情報よりも、一般ユーザーのリアルな声を求めています。
ググるの限界とハッシュタグ検索
Google検索の上位には、SEO対策された企業サイトやまとめサイトが多く表示されます。若者はこれらが「宣伝目的の情報」であることを敏感に察知し、警戒心を抱いています。
一方でハッシュタグ検索なら、一般人が投稿した加工のない写真や本音の感想が見つかります。信頼できる情報を手繰り寄せる行為、それが「タグる」の本質です。
失敗しないための確認作業
カフェや美容室を探す際、公式サイトの綺麗な写真よりも、実際に訪れた人の投稿の方が参考になります。「タグる」は、検索というよりも「答え合わせ」や「確認」に近い行為です。
広大な海を冒険するのではなく、特定の興味関心のクラスターの中で共感できる情報を集める。これは失敗を避けたいという現代的な心理の表れでもあります。
好きを徹底的に深掘りするディグる
「ディグる」は、もともとレコード収集家が店で名盤を掘り出す行為に由来する言葉です。特定の対象について徹底的に深掘りする、現代のネット利用を象徴しています。
ネットサーフィンが「広く浅く」楽しむものだとすれば、ディグるは「狭く深く」潜る行為です。推し活文化とも相まって、この言葉は定着しつつあります。
水平移動から垂直潜行へ
様々なジャンルのサイトを渡り歩くネットサーフィンは、水平方向の移動でした。対してディグるは、好きなアーティストやブランドなど、特定の対象に向かって垂直に深く潜っていきます。
ここには「受動的な暇つぶし」のニュアンスはありません。自分の好きなものをとことん知りたいという、強い探求心と熱量が込められています。
推し活と探偵的行為
SNSの過去ログを遡って情報を特定したり、バンドの過去の対バン相手を調べたりする行為はまさに発掘です。現代のネットユーザーは、気に入ったコンテンツを見つけると、探偵のように情報を掘り返します。
「ネットサーフィン」という言葉が持つ軽やかさでは、この執念とも呼べる熱量は表現しきれません。だからこそ、ディグるという重みのある言葉が選ばれているといえます。
ビジネスシーンでのネットサーフィンの扱い
言葉の変化は、若者文化の中だけでなくビジネスの現場でも起きています。かつては情報収集能力の高さを示した「ネットサーフィン」ですが、今では使うべきではありません。
現在、この言葉はネガティブな意味合いを強く帯びています。職場で誤解を招かないためにも、言葉の持つイメージを正しく理解しておく必要があります。
サボりや生産性低下の代名詞
現代のオフィスにおいて「ネットサーフィンをしていました」と言うことは、仕事をサボっていたと公言するに等しい行為です。「目的もなくダラダラとネットを見ていた」と解釈されるからです。
IT部門によるログ監視も厳しくなり、業務に関係のないサイト閲覧は「サイバースラッキング」として問題視されます。かつてのような「面白いサイトを見つけた」と共有する文化は、今の職場にはありません。
時間浪費のニュアンス
ビジネスにおいて時間はコストであり、生産性が何より重視されます。サーフィンという言葉が持つ「遊び」や「無目的」なニュアンスは、ビジネスの価値観と相容れません。
仕事中にネットを見る行為は、明確な目的を持って行われるべきです。そのため、遊びの要素を含むこの言葉は、ビジネスの場から排除されつつあります。
職場で使うべき適切な言い換え表現
では、業務としてWebを閲覧する場合、どのような言葉を使えばよいのでしょうか。私が推奨するのは、機能的で生産性を強調する表現への言い換えです。
言葉を変えるだけで、相手に与える印象は大きく変わります。ここでは、ビジネス文書や報告書でも使える適切な表現を紹介します。
ブラウジングや情報収集
最も無難で使いやすいのが「ブラウジング」という言葉です。「閲覧する」「拾い読みする」という意味で、感情的なニュアンスを含まないためビジネスに適しています。
あるいは、目的を明確にするために「オンライン調査」や「情報収集」と言うのが賢明です。これなら、業務の一環として必要な行為を行っていることを正当に主張できます。
まとめ|言葉の変化は時代の変化そのもの
「ネットサーフィン」が死語になった背景には、テクノロジーの進化と私たちの行動の変化がありました。海を漂う冒険者から、アプリという庭で情報を消費する生活者へと、私たちは変わったといえます。
この記事の要点をまとめます。
| 項目 | 昔(ネットサーフィン) | 今(タグる・ディグる) |
|---|---|---|
| 情報の流れ | プル型(自分で取りに行く) | プッシュ型(自動で届く) |
| 環境 | オープンなウェブの海 | アプリという閉じた庭 |
| 目的 | 暇つぶし、広範な探索 | 失敗しない確認、深い探求 |
| ビジネス | 情報通の証 | サボりの代名詞 |
これからはAIとの対話で情報を得る時代が来ると予想されます。サーフィン(波乗り)からダイビング(潜行)、そしてカンバセーション(対話)へ。
言葉の変化は、私たちがデジタルの海をどのように飼い慣らしてきたかの歴史そのものです。古い言葉が消えることを嘆くよりも、新しい波をどう乗りこなすかを考える方が建設的だと私は思います。

